病弱だった子供時代の脅迫観念から、大学になっても教室より道場で合気道に打ち込みました。その後も稽古を続け合気道5段、極真空手清武会2段、柔道初段に。
卒業後は肉体をたよりにゼネコンでダムやトンネル、鉄道の現場監督を務め、地図に残るもの造りに充実した青春時代を過ごしました。
その後、知的財産の分野に転進し、弁理士合格後に1年ほどワシントンで勉強・・・のつもりがもっぱら合気道を教えることになって。
師範の留守中は唯一の日本人として、稽古後の交流に時間を使って、会話や米国法の知識、および友人を増やしました。
そのときの経験から帰国後に「トレードシークレット」の米国の判例の研究を続け、数冊の出版につながりました。
不正競争防止法の改正の際には営業秘密に関して産業構造審議会から委員の委託も。
さらに「比較広告」「アンケート証拠」「トレードドレス」などの出版や論文にもつながりました。
米国で受けたカルチャーショックを経験してもらうために、事務所の開設の初期から、所員にひんぱんに海外出張をしてもらい、あるいは留学してもらっています。
現在も虚弱体質の脅迫観念から逃げられず、那覇マラソンを完走したり、100キロのバーベルを担いでスクワットを続けたり、家族からは「いい加減にしたら!」と非難を浴びています。
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